2010年11月06日
『十七八節』の世界観
歌うときには「思い入れ」が大切ですよ、とよく言われます。
それには、歌詞の持つ意味を深く理解しなければならないのですが、
言葉というものは文化的な背景を背負っていて、
沖縄の言葉の微妙なニュアンスを理解するまでには至っていません。
琉球古典音楽はゆったりとした曲が多いのですが、
琉歌・八八八八の32文字を基本にした歌詞のうち1文字を歌うのに、
30秒ぐらい費やすこともめずらしくありません。
でもそうなると、三線を弾きながら歌うのに精一杯で、
一体どのフレーズの一部なのかがわからなくなってしまうことがあります。
そういうことをクリアして初めて、「思い入れ」ができるのだと思うので、
もっともっと勉強しなければ、きちんと歌いこなすことはできません。
壁は大きいなあ・・・。
そんなことを考えているとき、
『十七八節』という曲を知りました。
三線のコンクールの最高賞部門の課題曲の一つです。
沖縄の曲で「十七八」と言うと、
娘盛りのお年頃 という意味で使われる歌詞が多いようですが、
この曲の場合は、重々しい曲想から(私にとっては、古典曲はみんな重々しく感じるけど)、
仏教の解脱に至る過程のうち、重要な「本願十七と十八」を意味している
という説があります。
なので、死者を悼むときに歌われたりします。
歌三線を教えてくださっている宮城康明先生は、
この曲を最初に歌って聞かせてくださったときに、涙ぐまれました。
「いろいろと思い出してね」と。
その後、師匠の故上地源照先生の追悼公演でも歌われたそうです。
で、この曲を知ったとき、一条の光が差し込みました。
「仏教の世界観なら、やまとんちゅ(私たち)のほうが得意なんじゃない?」
そして、しばやく休んでいた三線を再開することを決めたとき、
「よし、この曲をクリアしよう!」と心に決めました。
(今年の5つの目標のうちのひとつにしました)
先人たちの研究成果のおかげで、全体のストーリーは解釈されています。
この世にまだたゆたっている魂とのお別れ、あの世への旅立ち
というようなテーマです。
それが曲全体を通じて表現されています。
ただし、15分くらいの長い曲なので、覚えるのだけでも大変です。
そこで、 楽曲分析(アナレーゼ)もどきを試みました。
あくまで自己流。もどきもいいところですが、
「このフレーズに持っていくためにこの前兆があるんだ」
などと勝手に解釈して、納得したりしながら。
ふむふむ、声明(しょうみょう)の雰囲気だってあるし、
「喝!」みたいなところだってあります。
信仰はしていないけど、仏教的な感覚って、
とってもイメージがつかみやすいです。
曲想をかみしめながら歌う、いい訓練になったのではと思っています。
ただ、覚えたのは半年前で、今日、久しぶりに弾いてみましたが、
結構忘れてましたねー。
それには、歌詞の持つ意味を深く理解しなければならないのですが、
言葉というものは文化的な背景を背負っていて、
沖縄の言葉の微妙なニュアンスを理解するまでには至っていません。
琉球古典音楽はゆったりとした曲が多いのですが、
琉歌・八八八八の32文字を基本にした歌詞のうち1文字を歌うのに、
30秒ぐらい費やすこともめずらしくありません。
でもそうなると、三線を弾きながら歌うのに精一杯で、
一体どのフレーズの一部なのかがわからなくなってしまうことがあります。
そういうことをクリアして初めて、「思い入れ」ができるのだと思うので、
もっともっと勉強しなければ、きちんと歌いこなすことはできません。
壁は大きいなあ・・・。
そんなことを考えているとき、
『十七八節』という曲を知りました。
三線のコンクールの最高賞部門の課題曲の一つです。
沖縄の曲で「十七八」と言うと、
娘盛りのお年頃 という意味で使われる歌詞が多いようですが、
この曲の場合は、重々しい曲想から(私にとっては、古典曲はみんな重々しく感じるけど)、
仏教の解脱に至る過程のうち、重要な「本願十七と十八」を意味している
という説があります。
なので、死者を悼むときに歌われたりします。
歌三線を教えてくださっている宮城康明先生は、
この曲を最初に歌って聞かせてくださったときに、涙ぐまれました。
「いろいろと思い出してね」と。
その後、師匠の故上地源照先生の追悼公演でも歌われたそうです。
で、この曲を知ったとき、一条の光が差し込みました。
「仏教の世界観なら、やまとんちゅ(私たち)のほうが得意なんじゃない?」
そして、しばやく休んでいた三線を再開することを決めたとき、
「よし、この曲をクリアしよう!」と心に決めました。
(今年の5つの目標のうちのひとつにしました)
先人たちの研究成果のおかげで、全体のストーリーは解釈されています。
この世にまだたゆたっている魂とのお別れ、あの世への旅立ち
というようなテーマです。
それが曲全体を通じて表現されています。
ただし、15分くらいの長い曲なので、覚えるのだけでも大変です。
そこで、 楽曲分析(アナレーゼ)もどきを試みました。
あくまで自己流。もどきもいいところですが、
「このフレーズに持っていくためにこの前兆があるんだ」
などと勝手に解釈して、納得したりしながら。
ふむふむ、声明(しょうみょう)の雰囲気だってあるし、
「喝!」みたいなところだってあります。
信仰はしていないけど、仏教的な感覚って、
とってもイメージがつかみやすいです。
曲想をかみしめながら歌う、いい訓練になったのではと思っています。
ただ、覚えたのは半年前で、今日、久しぶりに弾いてみましたが、
結構忘れてましたねー。
Posted by りんぼ at 17:59│Comments(7)
│歌三線
この記事へのコメント
うたう、歌う、唄う、詠う、謡うというのは本当に難しくて、苦楽しい(造語ですがお分かりいただけると思います)行為なのですよね。「一文字に30秒費やす」という表現で、声明やら平曲やらを思い浮かべたら、どうもそれに近い世界なのだと、文脈からは推察されます。こんどお目にかかったら、そんなお話もしたいものですね。
Posted by 都鳥 at 2010年11月10日 00:19
☆都鳥さん
いやいや、お話だけでなく、歌っちゃってもいいですよー。周りには誰もいない、というときに限りますが。
いやいや、お話だけでなく、歌っちゃってもいいですよー。周りには誰もいない、というときに限りますが。
Posted by りんぼ at 2010年11月10日 23:22
はじめまして。
十七願と十八願は浄土三部経に入っているもので浄土教学が必要となりますね。浄土教学を使用する宗派華厳宗、天台宗、浄土宗、浄土真宗、時宗の寺院に行かれれば内容は良くお解りになる事が出来るかと思います。
声明を扱うのはこの中では天台宗のみですし声明自体は密教学(タントリズム)になりますので、日本では高野山真言宗が最古の密教と言えますし、真言宗開祖空海と天台宗開祖最澄は密教学では師弟関係にありますから恐らくどちらに行かれてもほぼ同じかと思いますね。
ただ歴史的に安冨祖正元師は謡曲師範であったし、野村安趙師らの時代は首里は空前の謡曲ブームでもあった、謡曲は腹式呼吸の歌謡である、詩吟も同じく、また詩吟の三味線の義太夫から二揚調子が日本で定着し、謡曲や津軽三味線も大多数が二揚調子となり、江戸末期から明治初期にかけて琉球士族の三線曲のみに二揚調子が爆裂的に流行した事実も踏まえて慎重に考察すべきかと思います。
何と言っても琉球は異文化の良い所を巧みに取り込んで形成されていますから、多角的考察が進まなければいけませんね、ちなみに友人の真言宗の高僧は琉球古典音楽を聴いて声明とは発声が異なると明言されていました。私は声明をしない宗派の僧籍がありますが、確かに知る範疇の声明とは異質かと思うのです。
共通項なのは腹式呼吸の点だけで、それなら謡曲、詩吟、甚句なども全て腹式呼吸なのでは?と思うのです、安冨祖流の故金武良仁師低音域を抉るように歌唱なされている作田節や照喜名朝一師が唯一の伝承者である旅唄の「旅御前風」などを聴いていると謡曲や能までのイメージが出現してきます。
深すぎますよね、琉球古典音楽は。
十七願と十八願は浄土三部経に入っているもので浄土教学が必要となりますね。浄土教学を使用する宗派華厳宗、天台宗、浄土宗、浄土真宗、時宗の寺院に行かれれば内容は良くお解りになる事が出来るかと思います。
声明を扱うのはこの中では天台宗のみですし声明自体は密教学(タントリズム)になりますので、日本では高野山真言宗が最古の密教と言えますし、真言宗開祖空海と天台宗開祖最澄は密教学では師弟関係にありますから恐らくどちらに行かれてもほぼ同じかと思いますね。
ただ歴史的に安冨祖正元師は謡曲師範であったし、野村安趙師らの時代は首里は空前の謡曲ブームでもあった、謡曲は腹式呼吸の歌謡である、詩吟も同じく、また詩吟の三味線の義太夫から二揚調子が日本で定着し、謡曲や津軽三味線も大多数が二揚調子となり、江戸末期から明治初期にかけて琉球士族の三線曲のみに二揚調子が爆裂的に流行した事実も踏まえて慎重に考察すべきかと思います。
何と言っても琉球は異文化の良い所を巧みに取り込んで形成されていますから、多角的考察が進まなければいけませんね、ちなみに友人の真言宗の高僧は琉球古典音楽を聴いて声明とは発声が異なると明言されていました。私は声明をしない宗派の僧籍がありますが、確かに知る範疇の声明とは異質かと思うのです。
共通項なのは腹式呼吸の点だけで、それなら謡曲、詩吟、甚句なども全て腹式呼吸なのでは?と思うのです、安冨祖流の故金武良仁師低音域を抉るように歌唱なされている作田節や照喜名朝一師が唯一の伝承者である旅唄の「旅御前風」などを聴いていると謡曲や能までのイメージが出現してきます。
深すぎますよね、琉球古典音楽は。
Posted by くがなー at 2011年02月09日 12:14
☆くがなーさん
とても丁寧に解説していただき、ありがとうございます。
「ところ変われば品変わる」ではないですが、琉球古典音楽には、ヤマトの芸能を首里の貴族たちの感性でとらえたという側面があるのだとすると、やはりヤマト的に受け止めてはいけないと言うことですね。う~ん、やはり壁は大きいですね。
そういえば、禅宗系での法要があった際、「ご詠歌(ごえいか)」というものをみんなで歌った(歌わされた?)ことがあるのですが、声明とどう違うのか。門外漢としては、同じジャンルに思えてなりませんでした。
それにしても、「旅御前風」という存在をはじめて知りました。機会があれば、聴いてみたいです。
とても丁寧に解説していただき、ありがとうございます。
「ところ変われば品変わる」ではないですが、琉球古典音楽には、ヤマトの芸能を首里の貴族たちの感性でとらえたという側面があるのだとすると、やはりヤマト的に受け止めてはいけないと言うことですね。う~ん、やはり壁は大きいですね。
そういえば、禅宗系での法要があった際、「ご詠歌(ごえいか)」というものをみんなで歌った(歌わされた?)ことがあるのですが、声明とどう違うのか。門外漢としては、同じジャンルに思えてなりませんでした。
それにしても、「旅御前風」という存在をはじめて知りました。機会があれば、聴いてみたいです。
Posted by 管理人りんぼ at 2011年02月09日 23:58
まず、日本の声明と中国密教の声明とチベット密教(ラマ教)の声明でも言語そのものの抑揚や韻律などによる差異がありますが、基本的に僧侶のする声明は基本的に吟法が単純過ぎますね。
和讃の類の御詠歌の類の方がより歌謡としての節が複雑に入ります、声明はタントリズムに於いては良い意味の声明ばかり公開されているようですが究極的には低音域ばかりの半分マントラが混濁したようなものまで日本でも存在するようです。
ちなみにタントラ(真言)を唱える際にも一定の韻律を付けた腹式呼吸が基本ですが、如何せん腹式呼吸なだけで、呪縛祝詞とも取れる明王まで含まれますね。
単純ですし、余程経典(スッタ)を読む方が複雑に節を入れなければならないものもあります。
多分一般販売されている声明ならチベットのものがかなり節が入っているかと思われますし、奄美民謡行きゅんにゃ加那とほぼ同一メロディーのラマ教声明の存在が指摘されていますから声明の直接的な発声も取り入れられているかも知れませんね。
しかし私が居た寺院から分派して成立した比叡山延暦寺天台宗には行かれれば収穫は多いかと思われますね、法華、密教、浄土、禅な4教学をなされておりますから、かなりな量の参考資料や参考になるものが見れますよ。例えば浄土法話の長者流れはそのまま仲順流れですし、継親念仏は継親そのまま、八重山のあの山とかかぬ山と呼ばれるものは園山念仏、沖永良部島に伝わる桜の壇じ(桜の男児)は花御壇念仏が原本かと思われますし、比叡山は宝庫かと思われますよ。
和讃の類の御詠歌の類の方がより歌謡としての節が複雑に入ります、声明はタントリズムに於いては良い意味の声明ばかり公開されているようですが究極的には低音域ばかりの半分マントラが混濁したようなものまで日本でも存在するようです。
ちなみにタントラ(真言)を唱える際にも一定の韻律を付けた腹式呼吸が基本ですが、如何せん腹式呼吸なだけで、呪縛祝詞とも取れる明王まで含まれますね。
単純ですし、余程経典(スッタ)を読む方が複雑に節を入れなければならないものもあります。
多分一般販売されている声明ならチベットのものがかなり節が入っているかと思われますし、奄美民謡行きゅんにゃ加那とほぼ同一メロディーのラマ教声明の存在が指摘されていますから声明の直接的な発声も取り入れられているかも知れませんね。
しかし私が居た寺院から分派して成立した比叡山延暦寺天台宗には行かれれば収穫は多いかと思われますね、法華、密教、浄土、禅な4教学をなされておりますから、かなりな量の参考資料や参考になるものが見れますよ。例えば浄土法話の長者流れはそのまま仲順流れですし、継親念仏は継親そのまま、八重山のあの山とかかぬ山と呼ばれるものは園山念仏、沖永良部島に伝わる桜の壇じ(桜の男児)は花御壇念仏が原本かと思われますし、比叡山は宝庫かと思われますよ。
Posted by くがなー at 2011年02月10日 12:28
追加コメントすみません、机上の空論では仕方ないのでそれぞれの宗派の御詠歌や和讃や読経や主要二宗派本山の声明と浄土三部経の解釈や日本でお経と呼ばれているものの分類で本来はスッタやガーターやニカーヤの違いや内容の意義や韻律の有無などを考察してみて下さい。
ちなみに浄土教こと浄土門は本来中央アジアの浄土教群と呼ばれる仏教とは異なる宗教集団、密教はパキスタンとアフガニスタンの国境地帯のいわゆるガンダーラ地方生まれの古代宗教タントラ教が大乗仏教形式と複合したもので、やはり元々仏教ではないと踏まえていれば、教学上で原始仏教とは異質なものだと理解出来るでしょうから。
ちなみに浄土教こと浄土門は本来中央アジアの浄土教群と呼ばれる仏教とは異なる宗教集団、密教はパキスタンとアフガニスタンの国境地帯のいわゆるガンダーラ地方生まれの古代宗教タントラ教が大乗仏教形式と複合したもので、やはり元々仏教ではないと踏まえていれば、教学上で原始仏教とは異質なものだと理解出来るでしょうから。
Posted by くがなー at 2011年02月11日 08:40
☆くがなーさん
すごい知識ですね!
こんなおふざけまじりのブログにはもったいない感じで、恐縮です。
くがなーさんは、天台宗系の僧侶なのでしょうか?(当方、比叡平地区の下水道のパンフレットは作ったことがあるのですが)
さて、神話などでもよく指摘されることですが、遥か離れた国どうしで同様な神話が存在するのは、プリミティブな感性がもたらしたものであるからだ、否大陸がかつてつながっていた太古の時代の移動・交流等の痕跡である、そんな議論を髣髴させる高尚な内容ですね。それから、「みんなでやること」と「個人で追求するもの」とは、技巧の複雑さ、発展後のかたちは違ってくるのかなあということも感じました。
ともあれ、くがなーさんは、まずはひとつのことを深く深く追求されたから、他のこととの比較ができるのでしょうね。
私自身は、目下、「腹式呼吸ができるようにないたい!」という足元にも及ばないレベルなのです。少しずつですが、勉強を続けていきます。
すごい知識ですね!
こんなおふざけまじりのブログにはもったいない感じで、恐縮です。
くがなーさんは、天台宗系の僧侶なのでしょうか?(当方、比叡平地区の下水道のパンフレットは作ったことがあるのですが)
さて、神話などでもよく指摘されることですが、遥か離れた国どうしで同様な神話が存在するのは、プリミティブな感性がもたらしたものであるからだ、否大陸がかつてつながっていた太古の時代の移動・交流等の痕跡である、そんな議論を髣髴させる高尚な内容ですね。それから、「みんなでやること」と「個人で追求するもの」とは、技巧の複雑さ、発展後のかたちは違ってくるのかなあということも感じました。
ともあれ、くがなーさんは、まずはひとつのことを深く深く追求されたから、他のこととの比較ができるのでしょうね。
私自身は、目下、「腹式呼吸ができるようにないたい!」という足元にも及ばないレベルなのです。少しずつですが、勉強を続けていきます。
Posted by 管理人りんぼ at 2011年02月11日 16:24